昭和54年06月24日 朝の御理解



 御理解 第100節
 「めでた めでたの若松様よ 枝も栄える 葉も茂ると言うではないか。金光大神は、子孫繁盛 家繁盛の道を教えるのじゃ。

 お道の信心をまあ頂いて、愈々家繁盛子孫繁盛のおかげも頂けるような信心を頂きたい。一代仏に終わっちゃならん。子々孫々にそれが伝わって行くようなおかげ。所がお道の信心を頂いて、家繁盛子孫繁盛のおかげを受けておると言う人は、非常に少ない。ね。すると金光大神はいうなら嘘を教えておられるか、でなかったら金光大神の教えられる道というものを行じなかったかと言う事になる訳。ね。金光大神の家繁盛子孫繁盛の道というのは、そんなら難しいから行じられなかったのだろうか。ね。
 只成程難しく頂けば限りがないでしょうけれども。ね。おかげを頂ていくお徳を受けていくと言う事時点においての金光大神の教えね。それは「人間が人間らしゅう生きていく」と言う事。ね。教祖金光大神もいわゆる人間らしゅう生きられた。そして天地金乃神様の前にも、後にもこういう方は有るまいと思われる。絶対の御信頼を天地金乃神様から御受けになられたね。そして、今までの言うならば宗教が現し得なかったおかげ。今までの各、宗教人がね言い尽くせなかった御教えを。
 金光大神に託され、金光大神がそれを私共に教え伝えて下さった。ね。所があまりにも深遠でありあまりにも高度な為に。私共がそれを頂き得なかったと言う事の方が本当だろう。頂き得なかったからこそ、いわゆる子孫繁盛家繁盛につながってない。ね。それを言うならば、ここまでも云うならば高度な信心が今まで過っておっただろうかと思われる様に、しかも分り易くしかも行じろうと思えば見易う行じられ。そういう高度な信心を身に付けていく。それも日々の信心修行の中にね。
 人間らしい生き方をさせて頂きながらの修行である。火や水の行じゃない。家業は皆んなが持っておるから、その家業を本当に行として。お互い心がないと言う者はない。その心に感ずる諸々の思いという情念というものをね。人間らしゅうそれもね、答えにおいては有り難いと答えの出るような受け方、頂き方が説かれてあるのが合楽理念。それを一口に言うと。ね。全ての事に御の字を付けて、御事柄として頂けるね。只事柄として頂いたらそれはね。大変困った結果になるかもしれませんし。
 まぁ言うならば、お粗末御無礼になるかもしれません。言うなら仏教的に言うなら、それが因縁をつくる基になるかも知れません。キリスト教的に言うたら、それが罪に成ると言われるかも知れません。そういう事柄の中にあってもほなら。教祖金光大神の教えを基にして、本当に御の字を付けて合掌して頂く、受けるという生き方が説かれてあるので金光教。ね。だから御の字を付けさえすれば良いというではなくて。御の字を付けるという事は、「有難い」という一念で受けられるという手立てなんだ。ね。
 そこにいうならば信心がいると言う事になるんです。言うそこに本当に日々の御教えの実験でありそれを、実証していかなければ、そこに到達する事も又勿論分らない。そこに到達すると言うと大変難しいようだけれども。それがね楽しゅう嬉しゅうそこの粋に到達して行く事の出来れる道が、まあ日々合楽では解かれておる訳なんでありますね。だから御の字を付けられてないです、御の字を付けると言う事は「有難いなぁ」とそれを受けられて初めて御の字が付けられたと言う事になるのです。
 あぁこげな事しよるが大丈夫じゃろうかと。と言うてから御の字を受けた分じゃ。こげな事になってしまうです。ね。だからそれを言うならば自分のものにすると言うか、血に肉にすると言うか。本当に一切が神愛と教え頂けれる心の状態を創っていく手立てが、教祖金光大神の御教えの中にはいっぱいある。例えばやれ痛やと言った様な事であっても、今みかげという心になれば有難いと言う事になるでしょう。ね。こういう災難例えば災難と受ければ災難だけれども。ね。
 「難有って喜べ」「難はみかげ」という頂き方をすりゃお礼が言えれるでしょうね。あれは食べてならん。こうしてはならんというのが、金光大神の御教えにはない。それはもう厳めしいまでに厳しく他の宗教がもう全部が解いたんです。ね。生臭けは取ってはいけない。酒を飲んじや、もう本当にそう宗教を極めようとするとそこにぶつかるんです。ね。所が教祖の神様はですね、例えば生臭けであろうがね。れこそ「命の為に天地の神の創り与えたもの」。
 「命の為に創り与えられたもの」なら一切の事柄がです。人間の幸福の為にね、楽しい有難い思いをさせて頂く事の為に出けておる。そげなもの贅沢と言った事もない。ね。金光様の信心をすりゃ質素倹約をせにゃならんと言う事もない。ね。ただしそれは自分のまぁいつも申しますようにね、自分の分に応じたと言う事なんです。ね。キンシャの着物の着流しであってもいいでしょう。ダイヤモンドの指輪をいうならば散りばめた物を身に付けてもいいでしょう。それが出来るならば。
 それがね、出来もせんのに借金しながらそう言う事することがいけない。そこん所は教祖は「大酒大欲は絶食の元になるぞ」という風にも言うておられるんです。そりゃ酒は、あぁ飲めば気分が良くなると言うて、飲み過ぎて二日酔いすると言った様な事では、ご無礼になる。命の為ではなくて命を害する事の為に、心がいやが上にも楽しいな、有難いなぁと思わさせて頂く為に頂けば良いのだけれども。その心がいつもさいなまれる様な、こんな事しよったら今にばちかぶるじゃろうと言った様な。
 生き方をしながらそれに御の字を付けたのでは始まらない。例え事柄がそうであっても御の字が付けられる様な、言うならば生き方が身について来る。そこに信心の稽古がいる。いわゆる日々実験実証して行かなければ確かなものになって来ないと言う事。ねぇ。私は今朝方こんなお夢を頂いた。あぁ宝来山というのは絵に見た事は有るけれど、これが宝来山で有ろうかと思われる様な。もうそれこそ切り立った様な山に私が、まぁ八分目位の所まで登っておる。皆も段々後ろから付いて来ておる。
 そういう例えば切り立った様な山だけれども。もう一つも危険を感じんで済む様な立派な立派なと言うよりも。もう今まで無い様な道がずうと続いているのである。ね。例えばザイルを打ち込みながらそして登山するという。そういうその危険の伴うたものではない。それでも人を見ればね、矢張りスリルを感じる様に、もう断崖絶壁と言った様な所を。しかも確かな足取りで、確かな道を歩いて行っておるという御夢であった。所がですね、そこからある人が真っ逆さまに転落して行く姿を頂いた。
 もんどりうって、こう身体が曲がりながらね下へ。それが相当高い所ですから相当時間かかる様な、はあはあともう見る時間がある位な時間で、下へ落ちて行く所を頂いた。ほいで私はあそこへ下りてみて、それをあの下りたわけでもないけれど、その死体というのが、あぁ丁度ふもとにある杉木立の中に落ちておる。それがまぁ12、3の子供であった。そして、そんな高い所に落ちとるけれども、一つも傷はないけれども、印象的であったのは両方の手にこんなにして漫画の本を持っておる事です。
 皆さんどんな風に思われますか。今合楽で言われておる。合楽理念というのはもう本当に宗教界というかね。もう最高峰なんです。それもまだ極めてまだ2分ぐらい残っておると言う事。ね。だから間違いのない道があるから落ちる筈がないのに、落ちておったのはその人が言うならばね。おもしろ半分というでしょうか。ね。言うならば漫画を読みふけっておったから足滑らせたと言う事になるのじゃないでしょうか。
 私共が勉強しておるのは、もうそれこそ日々合楽理念は、皆さんが聞いて下さると見易いごたるけれども。その神意というものは日々私共研修させて頂いて、その深さ広さにもう日々驚いておるんです。言葉ではね、私難しい事は知らんから見易い言葉で。だから誰でも皆さん分かるでしょう。けれども深さ広さというものは、もう本当にまっ驚くばかりです。こんな事は初めて聞いた。こんな御理解初めて受けたという様な内容のものなんですね。ですからもう一々それこそ参考書と言うか。
 字引を持って来てみらないと分からない様な御理解なんです。高度なんです。ね。同じ本を読むでもです。ね。漢文の様に難しい字ばっかり並べてあるという様なものもあれば、雑誌の様に所々挿絵なんかがあって、ね。絵を見たりする様なものがある。一番程度の低いのは言うなら漫画である。ね。言うならね言うなら誰でも読める。そしてまぁ面白いという訳でしょうか。だから合楽の信心はね。漫画じゃないです。漫画的じゃないです。やはり字引を引かなければ、今日頂いた御理解をもう一辺。
 研修にも研修しなければ本当の事は分からんです。只一辺御理解頂いて帰っただけでは分かる筈絶対無いです。何べんも何べんも繰り返し頂いて、そして研修させて頂いてもまだ一寸足りないな。もう一寸ここを解説しなければいけないなという感じなんです。ね。初めて金光大神が家繁盛子孫繁盛の道を。ね。誰でもが受けられる様に、誰でもが行じられる様に解き明かされたのが、言うならば御理解百節にあるおかげを頂かせて頂けれるその内容である所の教えであると言う事なんです。ね。
 昨日もお月次祭に一寸話した事でしたけれども、福岡のあるご信者さんがご主人の帰幽日でしたから、昨日一時の御祈念に御霊様にご挨拶してくれと言うて。色々お供え物なんか揃えてみえて居られました。で昨日の正奉仕の先生がその事を務めさせて頂いて、私はここからその後ろ祈念を一生懸命させて頂いておったら御霊が御霊らしゅうなると言う事を頂いたんです。ね。「金光様の御信心を頂いてね。死したる後、神に祀られると言う事を有難いと心得て信心せよ」と仰るが。
 金光教の信心しよって死んだから誰でも御霊様になれると言うこっじゃないね。死んだら仏になる。仏になると言う事は本当に拝み拝まれるような魂を言うのであろうと私は思うです。御霊様でもそうです。これが例えば人間がです。お道の信心によって教えを頂いて、今までの生き方からです。改まりに改まった生き方をさせてもろうて、言うならば人間らしゅう生きていくと言う事なんです。人間が人間らしゅう成ると言う事なんです。その人間が人間らしゅう成ると言う事をです。
 こんなにも有り難いものであったか。そして行ずれば誰でも行じられる。こんなにも云うならば、みやすう有難う、楽しゅうしかも愉快にまでも高められて行く様な生き方があったのかと。合楽理念をマスターして日々の信心の教えというものを実験実証して行く生き方からなら必ず生まれて来る。成る程これならばあの世にも持って行けれるだろう。所謂これならばあの世でも神に祀られる事が出来るであろう。そしてこれを子孫にも残して置く事が出来るであろう。
 愈々家繁盛子孫繁盛の確心というものが生まれて来るわけです。ここはひとつね。やっぱり実験実証、合楽理念の実験実証者に成らなければならない。家庭にならなければいけない。証者にならなければいけない。ね。只おかげ頂きさえすりゃと言う事じゃあでけん。いわゆる御理解百節に頂く様なです。愈々それこそ目出度めでたと言われる、言い思う様なおかげを頂く事の為に、そして成程教祖生神金光大神の御教えには寸分の嘘もない、間違いもないという実証者に成らせて頂かねばならんと言う事です。ね。
 私今朝からここへ着かせて頂いたら、真っ暗いから分からんけど妙なもんがここに置いちゃると思いよったら、こういうものがここに置いてある。木彫です。ね。布袋和尚です。布袋和尚が両手を上げて万歳をしてござるとこ。ね。布袋和尚ちゅうのはこれは私は軸に頂いたのに、布袋和尚、人間界においては最高の徳を受けた人という意味なんです。布袋和尚というのは人間界においては。ね。仏の世界では、弥勒の菩薩と言われておる。人間界においては布袋和尚。そんな事が書いた軸あのう。
 頂いてそんな御理解を頂いた。皆さんも記憶が有るだろうと思うです。ね。だから私の事を大黒様と言われる。その反面はいうなら布袋和尚と言う様に。私の部屋の中にはその左におった。あぁ大黒様とそれと同じ位な高さの左に内輪を持った布袋和尚。いわゆる左内輪の和尚とが、二つ並べて陳列してございます。これにもう一つこれをだから加えなければならないなと今日は思う。ね。
 これが手に入りました。これはねこれに書いちゃ。末長く合楽教会で保存させるべきだと思うて、これをお届けさせて頂きますと書いてある。これもう合楽のある限り、これはどう言う事かと言うとね。布袋和尚が万歳してござると言う事は云うならば。ね。合楽理念の実験実証の凱歌(がいか)だと思うですね。ね。いうなら勝つ、負けというなら勝った時「バンザイ」と言うでしょう。
 いわゆる合楽理念の実験実証の凱歌(がいか)です。これはこいう所がね、今日の御理解を頂いて、この何言うなら布袋和尚のお供え。そして今日皆さんに聞いて頂いた家繁盛子孫繁盛の道というものがです。ね。実感としてピタッと感じられるでしょうが。皆さん。ほう面白いこっちゃあるという風に思われんでしょうもん。私の言うておる事を実証して下さるかの様にそう言う事実というものがね。そこに証が立てられている。ね。これは、だから実験実証して行く者の上の凱歌(がいか)なんです。
 言うならこれを言うならば人間らしゅう生きる生き方というものが、合楽理念に打ち立てられた。信心というものはそんなに。ね。それこそ仏教で言う五戒とかね。キリスト教で言う十誡と言った様な。もうとにかくそれを聞いただけでも身の毛のよだつ様な。とてもそんな事はもう至難のものだとしておるけれども。愈々その宗教を極めようとすれば、ほなら五戒にも取り組まなきゃならない。十戒にも取り組まなきゃならん。そういう厳しい掟の様なものというものが金光大神の世界には無いんだと。
 それを知らずに。ね。ここ百年の間にはこれ私共過去においてはそうでしたけども、やはり火の行水の行。ね。家業の行と言った様な事を、あぁ家業の行じゃありません。その断食の行と言った様な事をまぁしてまいりましたね。そげな事は真似でけんと皆んなが思うでしょう。ね。やろうと思や誰でも出来れる。しかも人間らしゅう生きての生き方をです。ね。愈々合楽理念によって実験実証させて貰い。教祖の神様が教えて下さってある。ね。家繁盛子孫繁盛の道を愈々進ませて頂いて行かなければならない。
 それは見易いようであっても間違いのない道を、言うなら宝来山の頂上を目指してお互い進んで行っておるわけですけれども。ね。けれどもここに心掛けておかなければならない事はです。ね、御の字も付けられない様な生き方をしたんでは、まっそげん言うと一寸厳しゅうなりますかね。ね。漫画の様な信心からはです。そういう高度な信心には進んで行かれないと言う事。ね。言うなら慢心と言うても良いでしょう。「慢心が出るとおかげを落とすぞ」と仰るが、それこそ慢心が出るとです。
 何処までもです。ね。貴方のおかげを頂くより他に手は無いという生き方を頂き続けていく限りですね。そげんな危険な道ではない。誰でも登って行けれる楽しゅう登って行けれる。若い人達が登山をする時に、それこそスリルを感じながら、又時には転落をして不幸な死を招く様なそういう道ではない。けれども人をやって、こう覗けばやはりスリルを感じる様なね。先月から私が申します。いわゆる実験実証。ね。
 一辺実験して見たけどダメだった。そこにはある場合においての危険を感ずる様な事もないではないですけど。それを愈々実験して行くうちにです。矢張りこれが間違いがなかったと言った様な確かな、言うならば足取りと確かな生き方を身に付けて。そして私が実験して実証して皆さんにこうやって聞いて頂いておるのですから。ね。合楽理念の一つの行者としての生き方というのは身につければ、間違いない。
 けれどもこれはもう少し深めていかなきゃならんと思うんですけれども、言うならばその落ちた転落したそのまあ子供と言う事は、信心の子供と言う事でしょうね。両方の手にこんなにしてからね。漫画の本を開いたまま、こう握ってはずさんでそのまま落ちておるという非常にそこん所が印象的な御夢であった。ね。と言うて厳しいじゃない。この布袋和尚さんじゃないですけれども、教祖生神金光大神様じゃないけれども。ね。人間らしゅう生きられた。しかも最高の生き方をなさった。ね。
 そこから金光教が生まれた。言うならば家繁盛子孫繁盛の道を教える宗教が生まれた。人間が幸福に成って行く事の為の宗教が生まれた。ね。それを合楽によって愈々。ね。絶対のもの確固たるもの。ね。私が「絶対、絶対」と言うと。なら今日これが絶対というのではない。ね。あれは大阪のある偉い先生が、私が絶対絶対と言うからその大変批難をした人があった。人間が絶対なんて言葉が使える筈がない。所が合楽の大坪先生の場合の絶対は、次の絶対がある。
 愈々本当のこれが本当だと言っているけど、愈々本当の事があると言う事を言いながらの本当だ。絶対だという風に説明して下さったと言う事を。私も聞いてね。ほんに私の絶対ちゅうのは確かにそうだと。限りなく言うならばまだ上に向かって言うならば。のぼっいわゆる宝来山の頂上を目指して登っておるというのが。ね。だから八分目おいての絶対である。だから又この上言うならば、頂上という所にはもっとより本当の事があるに違いありません。
   どうぞ。